ホーチミン・ミトー・クチ
・シェムリアップ
2005/1/02〜1/06

ベトナムってすごい国だ。
宗主国フランスを蹴散らし、超大国アメリカにも勝った国。

しかも、100万人もの戦死者を出しながらも民族自決の道を獲得し、分断された南北を統一させ、
勝利の地サイゴンは、北の英雄ホーチミンの名を誇らしげに(と、私には見える)受け継いだ。

更にはドイモイを敢行し、自国の経済・文化・産業の発展を勝ち取った。
なんてすごいんだ!

だから私はどうしても行ってみたかった。ベトナムへ。

山もある
川もある
人もいる
アメリカに勝ったら
築きあげよう
今よりも10倍も美しく

       by ホー・チ・ミン

そして、もう1つ、気になって仕方なかった国、カンボジア。

一時はインドシナ半島全体を支配し栄耀栄華を極めながらも、近隣諸国や大国の欲望に翻弄され、
クメール・ルージュの異常政治に苦しみ、国民の3分の1を失った国。

未だ多くの未撤去地雷を抱え、子どもが平和な子ども時代を送れないでいる国。
カンボジアって、どんな国なのか、この目で見てみたい。


・・・というわけで、今回は職場の後輩 A嬢と一緒に、ベトナム・カンボジアを訪れた。

旅  程
1/2 福岡空港からホーチミンへ

1/3 路線バスでミトーへ

1/4 ツアーバスでクチへ

1/5 飛行機でシェムリアップへ

1/6 シェムリアップからホーチミンへ。
そして、帰国


1月2日(日) ホーチミン
 福岡空港を出発し、14:10ホーチミンに到着。時差は−2時間。ベトナムは、わずか5時間弱のフライトで着く、とても近い国なのに、何から何まで日本と違っていた。
 最初に訪れたのは、ベトナム戦争の記憶を今に伝える「戦争証跡博物館」。私がホーチミンの中で一番行きたかったスポットだ。

 入場料は1万VD(ベトナムドン)=約80円。
欧米人もたくさん来ていた。

 不発弾の一部。ベトコンは、これらを回収し、自分たちの武器として作り替えて使用した。
 
 無造作に見えるまでに、外にはたくさんの武器(大きいものだとヘリコブターや戦車、装甲車、攻撃機に至るまで)が展示されていた。
 土産物屋には、なぜだか武器のオモチャもいっぱいだった。←複雑な気分だ。

 そして中庭には、ベトナムの小学生が描いた平和をテーマにした絵が飾られていた。
 
 建物は6号までの部屋に分かれていた。

 1・2号室は、アメリカ軍に従軍したカメラマンが撮った写真のコーナーだった。石川文洋氏や沢田教一氏の写真もあった。

 名も無き兵士や民衆が死傷し、金持ちが潤う、それが戦争なのだと改めて感じた。

3号室
 フランスの植民地だった時代に持ち込まれたギロチン台。ベトナム戦争では、アメリカ軍が南ベトナム解放戦線兵士(ベトコン)の処刑に使った。
 
 悪名高き、虎の檻。ベトコンの中でも強情だった者に、ひどい拷問を加えた部屋だ。左の黒いのは鉄の扉。この部屋の中で囚人は常に鎖で繋がれた。天井が檻になっていて、階段(写真中央)の上から監視したり、水や熱湯を投入した。
 
 そこにあった雑記帳に、オーストラリア人が書いていた言葉がとても印象深かった。I'm so sorry what we did.という言葉と共に、一緒に平和を創って行こうという力強いメッセージが添えられていた。平和って、誰かに創ってもらうものなどではなく、国や立場の違う者同士が手を取り合い、ひとりひとりが力を寄せ合って成し遂げていくものなのだと思った。

 眉間にしわを寄せ、資料に見入っている私達外国人の横で、1人のベトナム青年がタバコの空き箱を展示場内にポイと捨てた・・・。
 アメリカ軍は、ベトナム戦争中の1961年から71年までの10年間、当時の南ベトナム領内に除草剤1900万ガロンと、ダイオキシンを含む枯れ葉剤「エージェント・オレンジ」1200万ガロンを、上空から散布した。 ジャングルを枯らし、「どこにもいないが、どこにでもいる」ベトコンを根絶するためだった。

 4号室は、その枯れ葉剤の影響を説明するコーナーだった。不勉強な私は、枯れ葉剤の被害はもう終わったことだと心の中で勝手に思い込んでしまっていたが、今でも奇形児は生まれ続けていることを初めて知った。ホルマリン漬けの二重胎児の標本もあった。

 ソンミ村の大虐殺(1968年3月16日)の資料も多数あった。アメリカ兵(軍)は、ここまでクレージーだったのか!

6号室
 当時、ベトナム戦争に反対していた、世界の人達が製作したポスター。日本語(共産党)のものもあって、ちょっとほっとした。
 
 「戦争証跡博物館」を見学した後は、フランス統治時代の建物、中央郵便局や聖母マリア教会、人民委員会庁舎などを見て回った。(「歩いていたら見えた」という方が正しいんだけどね。)

 旧南ベトナムの旧大統領官邸、統一会堂。独立宮殿とも呼ばれていた。
 1975年、解放軍が無血入城し、サイゴンは陥落した。
 ファッションショーなども行われる市民劇場。元はオペラ劇場だった。観光地もドンコイ通りも、電線がいっぱいだった。
 街は、オートバイに溢れ、ものすごい人の数だった。
 交通マナーが悪く、信号機はあってもないのと一緒だし、排気ガスはすごいし、クラクションも鳴らされまくりで、ほとほと疲れた。バイクに2人乗りは当たり前で、3人乗りや4人乗りの人までいた。ヘルメットを被っている人は皆無。郊外に出る時は義務だが、町中ではしなくていいらしい。

 バイクの人は、みんなお手製のマスクをしていた。
ベンタイン市場
 1914年にフランス人によって建てられた。
 ここで、ものすごくしつこいおばさんに出会ってしまった。振り払っても振り払っても、とことんついて来られて商品説明され、大変だった。お店の人がディスカウントしそうになると、ベトナム語でケチもつけてきた。翌日も別の場所で会った時には、ぞ〜〜っとした。翌日なんて、「VD持ってないんなら、5000円と5000VDを両替してあげる。」なんて親切そうに言ってもきた。(1円=約150VDなのによ)
シェラトンからサイゴン川を臨む
 2学期よく頑張った(?)ので、自分にご褒美ってことで、ちょっと贅沢なホテルに泊まってみた。ここの所、ご褒美が随分多い(^^ゞ


1月3日(木) メコンデルタの街、ミトーへ
 メコン河は中国雲南省に端を発し、4,000kmの距離を流れているインドシナ最大の川。河口部はメコンデルタ地帯として果樹園や稲作が盛んだ。
 6時にホテルを出発し、タクシーで中華街チョロンへ。
 チョロンは、ホーチミンの華僑の大半が住む町で、中心部から約5qの場所にある。
 チョロンの市場はまだopenしていなかったが、個人の物売りは見かけた。店を持てない貧しい人たちなんだそうだ。
 
 チョロンバスターミナルで、ミトー行きのバスに乗った。
 予想通り、英語が全然通じなくて不安だったが、いい人だか悪い人だか分からないたくさんの人に取り囲まれ、いろいろ大声で教えてもらった。
 バスの中は、テレビの音がうるさく、冷房もないので排気ガス臭かった。座席はほぼ満席で、これでガイドブックに出てるみたいに動物まで乗ってきたら恐いな〜と思いながら出発を待った。約70qの距離が約120円だった。
 
 ミトーからは、初めてのバイクタクシー体験。このドライバーだけ英語がしゃべれた。
舟着き場に行った。
 初めは1人30$って吹っ掛けられた。
そんなに高いわけないでしょーっ(怒)
 別の小舟を1人12$でチャーターした。これでもちょっと高かったかも・・。この舟頭さんの夫は、日本人は高くなるんだと言っていた。正直な方・・(-_-;)
 海みたいに広いメコン河。水の色は黄土色だった。12月26日に起こったスマトラ沖地震の影響は、幸い全くなかったそうだ。

舟でジャングルに入って行った。
ベトナム戦争では、ここも激戦地だったそうだ。
 中州の小島では、いろんなフルーツが穫れる。右の方の赤いのは、タンロン(ドラゴン)フルーツ。
沐浴してる人を1人だけ見かけた。

中州の島、タイソン島の小川めぐり
 ココナッツだけを食べていたというココナッツ教団の住んだ島、ココナッツ島。入場料が必要で、テーマパークみたいな龍のオブジェや見晴台があった。
 舟頭さん。笑顔がとってもキュートな女性だった。アートな爪に感心した。
 水上生活者の集落では、食器や服を川の水で洗っている光景に出会った。部屋は1部屋だけで、そこにたくさんの家族が身を寄せ合って暮らしていた。

ココナッツ飴の製造過程も見学

ココナッツをドロドロに煮溶かして・・

棒の形に伸ばしていく。
島には、椰子で造った家が何軒もあった。ハンモックで眠っている人も幾人も見かけた。
 
 首に巻いて記念撮影しないかと言われたが断った。
 中州の島で食事した。
 この魚、「象の耳」と呼ばれている名物の唐揚げで、あっさりしていておいしかった。
 象の耳は、生野菜と一緒にライスペーパーに包んで食べた。
華僑文化の息づくビンタイ市場
 
 クルージングの後、バスでチョロンのバス停まで帰ったが、もうそこはものすごい喧噪の世界。人がわんさかいて、まるで神戸ルミナリエ状態。現地の人は、人垣をかき分け上手に歩いていたが、私たちは1歩も前に進めない。バス停からビンタイ市場まで、ほんの20〜30メートルの距離だったが、仕方なくタクシーで移動。親切な人がタクシーに合図してくれて、タクシーも人垣をかき分けて横に来てくれた。なんでそんなことが可能なのか不思議だった。
 で、ビンタイ市場でサンダルだけ買い、タクシーでさっさと帰った。観光客の多いベンタイン市場より、随分安かった。(半値くらい) ドンコイ通りではフォーを賞味。たっぷりの牛肉と野菜入りで、たったの2,4$だった。
「フォー」ってお店のフォー。おいしくて感動!


1月4日(金) クチ
 早朝、ドンコイ通りを散歩した。聖母マリア教会ではまだ暗いうちから早朝ミサが行われていた。公園で体操する人や水で体を洗っている人、歩道を掃除している人もいた。シェラトンの看守は眠りこけていた。静かだけど、人がいっぱいの朝だった。サイゴン川そばのチャンフンダオ像の周りは、既にかなりの交通量だった。さすがに観光客の姿はなかった。地元の人のためだけの時間が、そこには流れていた。
 クチはベトナム戦争中、鉄の三角地帯と言われていた解放戦線の根拠地で、ホーチミンの北西約70qの地点にある。ここに、ベトコンとクチの人々が掘ったトンネルが保存されている。トンネルは、ザルと小さなクワだけでサイゴン川まで掘られていて、内部は何層にも分かれ、体の大きなアメリカ人が入れないよう、所々狭くなっていた。広さは約4300平方q、総延長は200q以上。一番上の層のトンネルは地上から3〜4mの地点にあり、100kg爆弾にも耐えられるよう設計されていた。
 
 同じバスに、79歳の日本人男性が乗り合わせていて少し話したんだけど、彼は日本軍によってアジアの軍隊の基礎ができたとか、日本軍の侵攻は列強からアジアを守るために必要なことだったとか言っていた。しかし、その目は寂しげで、涙さえ浮かべていた。祖国への忠誠を尽くし、恐らくは苦しみながら年老いたであろう人に言うべきかどうか迷ったが、「正しい侵略なんてあり得ないと思います。」と、それだけは言っておいた。
 トンネル内部には、作戦会議室や病院、炊事場などの施設もあった。

あっちこっちにトンネルへの入り口があった。
 水の流れる、ただの溝みたいに見えるが、ここも入り口。

1 何にもないように見えるけど

2 葉っぱをどけると小さな穴

3 ここにこうやって入る。
4  私も挑戦。これ以上太ったら、もう出られない!井伏鱒二の「山椒大夫」をいきなり思い出した。
 ここの木は、枯れ葉剤ですっかり枯れていたが、戦後木を植えた。(だから小さい木ばかりだ。)ダイオキシンは、測定するとまだかなりの濃度だと言う。
ゲリラに攻撃され、アメリカ軍が放棄した戦車

中に、槍が立ってる落とし穴 

これも落とし穴
 トンネルの中では、日本製のシンガーミシンで兵士の服も作っていた。ブリジストンタイヤでゴム靴も
 この出口は広かったし観光用に階段もついてたけど、中は当時のままの穴だった。中腰で30メートル進んだだけで、足腰がガクガクになった!
 炊事場。煙で敵に場所を悟られないよう、何重にも煙消しの工夫がされていた。

中で武器を作ったりもした。
↓これが煙出しの穴       手作りの兵器↓

↑ 小柄な人でも腰を曲げて入る。    ↑この辺りで採集されたチョウチョ
 クチから帰ると、観光客でいっぱいのドンコイ通りやレロイ通りでまたお買い物。雑貨を買ったりアオザイをオーダーしたりして過ごした。オーダーだから当たり前だけどアオザイはピッタリフィットで大満足だ。現地ならではの様々な布地がセレクトでき、料金もお安くて嬉しかった。

 その後、飛行機でカンボジアへ入国。シェムリアップ空港はカンボジア第二の空港だが、日本で言うと石垣島空港くらいの小さな小さな空港だった。10月に即位したばかりの新国王と、1953年にカンボジアをフランスから独立させたシアヌーク前国王夫妻の大きな写真が飾ってあった。

 カンボジアの人口は約1000万人、北海道の2倍くらいの面積の小さい国だ。カボチャはこの国から伝わったので、その名がついたらしい。

<地雷のこと>
 地雷は世界中に約1億1千万個埋設されていて、20分に1人が消えようのない傷を心と身体に負っている。その30%は15歳未満の子どもたちだ。毎年1万人近い子どもたちが地雷を踏み、3人に2人は死に至る。死ななくても残りの人生を重症の身体障害者として送ることになる。地雷の被害にあった子どもの5人に1人しか就職することはできず、補助器具を支給される子もわずかだ。


 迎えに来てくれたガイドのトーンさんに紹介され、シェムリアップの中心地だという所で食事した。お世辞にもきれいとは言えない。蚊も飛んでいて、刺されて病気になりやしないかちょっと心配になった。

 町並みは、思った以上に前近代的だった。大きな建物なんてまるでない。車はもちろん、バイクさえも少ない。タクシーも全く見当たらなかった。カンボジアは、何もかもがこれからの国なんだ。住んでる日本人はまだたったの100人だと言う。

 その後、シェムリアップで一番大きいというオールドマーケット(これも想像と随分違っていた。小さい小さいマーケットだった。)で買い物をし、ホテルにチェックインした。プライベートバルコニー付きの豪華ホテルに泊まった。ご褒美だから仕方ない(?)が、内戦が終わって復興に一生懸命の国で贅沢するのも申し訳ないような気がした。


1月5日(水) アンコールトム・アンコールワット・タプロム・虐殺慰霊塔・バケン山

 まず行ったのは、アンコール・トム(大きな町の意)。一辺3qの正方形の土地が城壁で囲まれていて、5つの城門がある。12世紀末にジャヤヴァルマン7世が建設し、最盛期にはここに10万人もの人が住んでいた。

デヴァター。何て神々しい姿なのだろう。
 バイヨン寺院は、アンコール・トムの中心寺院で高さ45m。49ある塔には合計196面 の観世音菩薩が彫られている。
 南大門。門の真ん中を通っているのはバス。南大門に続く道には仏像と阿修羅の像が並んでいる。
回廊には、様々な題材のレリーフが。
第一回廊は、観光客でごったがえしていた。
 タプロムは、ジャヤヴァルマン7世が母親のために建設した寺院。当時は敷地中央に60余りの塔堂があったが、今では約70%が倒壊している。
 大蛇のように根を張った木に埋まるタプロム。「トゥーム・レーダー」はここで撮影されたんだって。
 崩れた所はそのままになっていたし、今にも崩れそうな所もたくさんあった。修復はまるで手つかずの状態。
 ガジュマルが枯れた所では、遺跡も崩れて来ているそうだ。遺跡の周辺では、手足を失った人々が、地元音楽を演奏していた。音楽以外に生きる術はないのだそうだ。
 アンコール・ワットは、12世紀前半にクメール朝のスーリヤヴァルマン2世によって建てられたヒンドゥー教寺院。中心に向かって高くなる3重の回廊があり、中央には世界の中心とされたメール山(須弥山)を模した塔堂がある。
 お掘りは大海を、城壁はヒマラヤを、塔は神が住む山を表すという。手前の聖池に建物がきれいに映し出されていた。
 この急角度!第3回廊の階段は命懸けで登った。さすが、カンボジア人のガイドは早かった。もう100回以上登っているそうだ。残念ながら、ここから落ちて亡くなった子もいるという。
 アンコール・ワットの長い長い回廊には、「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」のレリーフがあった。17世紀に初めてここを訪れた(とされている)日本人、森本右近太夫の墨書も残されていた。
 第3回廊から見た、高さ65mの中央祀堂。本当に、天国への階段みたいだった。
 ヒンドゥー教のヴィシュヌ神に捧げると同時に、王自身の墳墓として造られた。参道は540mで、ここからは5つの塔のうち3つしか見えない。参道の周辺では、上智大学のチームが遺跡の修復作業をしていた。右の塔のそばに見えるのはゴムの木。こんな大きなゴムの木があるなんて、知らなかった。
 日本の援助で建てられた病院。15歳以下の子どもはフリーだそうだ。センター・マーケットそばには、日本人カメラマンが建てたという病院もあった。
 バケン山とキリング・フィールドへ。その後、コンビニやオールド・マーケットにも寄った。コンビニでは私にとって久々の定価購入で、交渉のめんどくささがないのでよっぽど気が楽だった。
 階段の崩れた急坂を10分ほど登り、プノン・バケン(高さ75m)の山頂よりアンコール・ワットを臨む。バケン山は、第1次アンコール王都の中心とされた聖山。
 観光客用に象も待機していた。
 山頂には、ピラミッド型の寺院があった。ここに登るには、アンコール・ワットの第3回廊と同じような急な階段(短いけどね)を登らなければならない。地元の人はゴムぞうりでスタスタ登ったり降りたりしていた。
 他の遺跡と同じく、階段の数にも深い意味が込められているということだった。
 キリング・フィールド(虐殺慰霊塔)
 中央の窓から見えるのは、虐殺され、この辺り一面に散乱していたという人間の骨だ。すぐそばのワット・トメイ寺院のお坊さんが拾い集めて祭ったという。
 この場所は、ポル・ポト政権時代の刑務所跡で、虐殺された人の数は数万人とも言われている。赤ちゃんは銃剣で突かれたり、木に叩き付けられたりして殺されたそうだ。
 キリング・フィールドのそばには、愛知県の寺院や岐阜県の建設会社などの援助で建てられた孤児のための学校(DARUMA SCHOOL)があり、お坊さんたちと共に約300人の孤児たちが勉強していた。そこでボランさん(孤児院で10年間過ごし、今は教師になっている)や、孤児たちに出会った。彼らとの出会いは、思い出に残る、ほんとにいい出会いだった。みんなきれいな目をしていた。私も何かしなくっちゃ、そう思ってたったの10$だけだけど寄付をした。毎年ここを訪問し、いろんな援助を行っている日本人もいるそうだ。
 左がガイドのトーンさん。内戦で、大学には行けなかったらしい。お金持ちの親戚は虐殺されたそうだ。腸チフスに2回、コレラに2回、赤痢にもかかったことがあるって言っていた。野生の猿に噛まれたこともあるらしい。今でもカンボジアには、野生の象やライオンがいるんだって。右はドライバーのソさん。あまり笑わなかったけど、実直な好青年だった。何歳か聞いたけど、最後まで教えてくれなかった。
おまけ

 車にガソリンを入れている所。道端でガソリン買うのは違法なんだけど安いそうだ。ガソリンスタンドは一応あるみたい。
 
 カンボジアのサンセット。また必ず来たい、そう思った。
 この後、空港へ向かった。たった1日だけの滞在だったけど、素敵な体験がたくさんできたことに感謝したい。
 トーンさんは、空港の中で、私たちが見えなくなるまでずっと手を振ってくれていた。



1月6日(木) 帰国
 ホーチミンを経由し福岡へ。ホーチミンではトランジットの時間が結構あったので、マッサージした。メニューには60分って出てたけど、2時間しっかり揉んでもらって気持ちよかった。 

カンボジアのその他の写真は、こちらを見てね〜! 

p.s.

日本にいてもできること
 
 ボランさんは、DARUMA SCHOOLを建てた後平成12年に亡くなった日本人の位牌を大事にしていて、私に見せてくれたりした。私はボランさんと出会ったお陰で、日本にいてもできることっていろいろあるなと感じることができた。ボランさんや子どもたちには、これからもたくさんの困難が待ち受けているかもしれないんだけど、きっと未来を切り啓く、素晴らしい大人になると思った。
 それに、発掘調査したり復元作業したり、病院を建てたり学校を建てたりと、カンボジア復興に役立っている日本人もたくさんいることを知ることもできたし、カンボジアで過ごした1日は、ほんとにいい1日だったと思う。

 DARUMA SCHOOLの bank Accountはこちら。「11-02-06792-7」Cambodia Asia LTD


気候の異変
 
 今年はカンボジアでも気候が変だったそうだ。雨季にあまり雨が降らなかったということだった。早く何とかしないと、取り返しがつかないことになる。もう、そうなってるのかもしれない。

根性あるのに大らかな国

 私の行った時期は、クリスマスはとっくに終わっていた。なのに、ホーチミンでは町中でクリスマスツリーやトナカイやサンタさんを見かけた。空港にもツリーが飾ってあった。お店によると、半年くらい飾りっぱなしのところもあるんだそうだ。

帰 国 後
 
 6日の午前中に帰国したが、その日の午後から下痢になった。翌日が出勤日だったので単なる登校拒否かとも思ったが、それにしても様子が変。食いしん坊の私が何にも食べられない。で、何ともないかA嬢にメールしてみると、A嬢は39℃の熱を出して寝込んでいた! 
 
 翌7日、A嬢は仕事を休み、私は午前中だけ出勤し、病院へ。便と血液を検査した。気付かなかったけど、私もちょっぴり熱が出ていた。

 考えられるのは、A型肝炎や腸チフス、コレラ、赤痢などなんだそうだ。ぎょえぅ〜っ(◎◎;) かっぱえびせんの食べ過ぎかと思ったのにぃ〜。2人とも生水は全然飲んでないけど、ジュースに氷が入ってた・・・それが悪かったのだろうか・・?? A嬢なんて、用心して野菜も全く食べなかったというのに! 検査の結果は1週間後に聞きに行く。

 8日、私はすっかり元気になった。A嬢も徐々に快復。げに恐ろしや、菌パワー。人類を滅亡させるのは、何かの菌なのかもしれない・・。


☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆

オーダーメイドのアオザイ紹介こ〜な〜

 数時間で作ってHOTELに届けてくれるし、ワンピースやスカート等何でもOKだし、何と言っても激安、
日本の定価の5分の1〜10分の1くらい。生地屋さんもた〜っくさんあった。
デパートや市場だと既製品は5ドルくらいから。(◎◎;)
 
上は金糸の刺繍入りで、
下は真っ赤なパンタロンよ。
袖のとこは、黒のシースルー。
 
 こっちはシルク&ベルベット地。
胸元にキラキラのスパンコール入り。
 生地を気に入り作ったんだけど、もっと細かく打
ち合わせした方がよかったなと思った。仕上がり
が若干イメージと違ってたのよね。急がせたせい
かもしれない・・。
 なんか肩幅、がっしりし過ぎてるよ〜な・・・。
上腕なんてまん丸だし!(泣)
現地の人は、もっとほっそり着こなしていたゾ・・。
ダイエットせねば!





<これからオーダーする方へ>

 可能なら、仮縫い段階でチェック(試着)しよう!
採寸後完成までチェックなしの場合は、打ち合わ
せを念入りに。

 サイズが合えば、既製品の細かいところを直し
てもらうのが簡単で確実。ただし、展示品は日本女
性には大抵小さい・・・(;-_-;) 

結婚式で着た後、手洗いしたが、
紫色の汁がたんまり出てきた。

COPYRIGHT BY Yoshiko 2005〜
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