T児のコミュニケーションスキル育成をめざして 


1 はじめに

 かつて、他者とのコミュニケーションに障害のある子供(以下T児)を担任した。担任した当初はT児との接し方に迷いもあったが、毎日を共に過ごすうち、次第に一つ一つの言動の内にある彼のあふれる思いに気付くようになり、会話が成り立たないように見えても彼には思いがはっきりと通じていることもわかるようになった。
彼は理解力と表現力のバランスを欠いているものの、周囲の理解と援助次第で、将来自立した社会生活を送ることが可能と思われる。だが、既存の表現力ではどうしても特定の人にしか彼の本心は理解されにくく、そのために人間関係の広がりも極めて持ちにくいだろう。可能な限りの個別学習を保障して彼の能力を伸ばしたい、T児なりのコミュニケーションスキルを身に付けさせたい、と感じた。
 本児に可能なコミュニケーションとは何なのか、そのスキル育成をめざして1年間、私が試行錯誤したことをここにまとめておく。
 
(1)T児の特徴
       〜略〜
 
(2)T児の個別指導計画  
 年度初めに保護者の意見を取り入れながら、個別指導計画を作成した。T児については、身辺処理・社会生活・教科学習の3つの観点を設定し、年度末までに身に付けさせたい内容を記した。このうち、コミュニケーションに関わる内容は、以下の通りである。
(1) 相手の顔を見て聞く。話す。
(2) 自分から大きい声で挨拶をする。
(3) 自己紹介をする。
(4) 「ありがとう」「ごめんね」「どういたしまして」などの言葉を進んでつかう。
(5) 見たこと・聞いたこと・自分の考えなどを、話したり書いたりする。
(6) 自分から友達に話しかける。
(7) 気持ちを表す表情がわかる。
(8) 電話で話す。
2 指導の実際
(1)相手の顔を見て聞く。話す。
  話しかけられたらその人の方を向くことや、聞かれた内容に沿ってはっきり答えることを、具体的な話型を示しながら指導した。教室では、名前を呼び、呼んだ人の方を向いて返事をする練習を毎日続けた。
  
(2)自分から大きい声で挨拶をする。
  毎朝、職員室に連れて行き、在室の教師に挨拶させた。相手に聞こえる大きな声がなかなか出せなかったので、柔軟体操をしたり、前もって大きな声を出す練習をしたりしてから職員室に行くようにした。  

(3)自己紹介をする。
 自分から人に関わる練習と、相手の顔を見てはっきり話す練習のひとつのバリエーションとして、学校の隣の特別養護老人ホームを訪問し、お年寄りに自己紹介をする練習を続けた。

(4)「ありがとう」「ごめんね」「どういたしまして」などの言葉を進んでつかう。
 どんな時につかうのかが分かり身に付くよう、いろいろなシチュエーションを設定し、1日10分程度を10日間で1セットとしロールプレイした。演じる前には教師の手本によく注目させ、同じにするよう指示して行った。

設 定 場 面 言 葉
 1日目 人に物を取ってもらった時。もらった時。 「ありがとう」
 2日目 けがや病気を人に心配してもらった時。
 3日目 遊びや下校に誘ってもらった時。
 4日目 間違えて人のものをもっていた時。 「ごめんね」
 5日目 待ってもらったのに遅くなった時。
 6日目 急に立ち上がって、人に当たった時。
 7日目 遊びに誘ってもらったのに遊べない時。
 8日目 人にお礼を言われた時。 「どういたしまして」
9・10日目 ありがとう」「ごめんね」「どういたしまして」を取り混ぜて
  
(5)見たこと・聞いたこと・自分の考えなどを、話したり書いたりする。
 1日の生活の中で楽しかったこと、いやだったことなどを帰りの会で、毎日発表させた。初めはその日の出来事をなかなか思い出せない(あまり真面目に考えようとしない)ようだったので、「今日は何したっけ?」「他にはなかった?」などと問いかけたり、時程表やその時使った物を見せたりして振り返らせるようにした。
  またT児は順序立てて話すのが苦手なことから、国語の時間には接続詞を継続して扱い、実際の場面で使えるよう練習した。

(6)自分から友達に話しかける。
 休み時間にはT児に「○○さんに△△と言ってきて。」などと指示し、友達に話しかける練習をした。

(7)構文で話す。
 例えば、トイレに行きたいときは、「トイレに行っていいですか。」、作業が終わった時は、「できました。」や「見てください。」、連絡帳や作品を出す時は、「お願いします。」などというように、必要な言葉を単語でなく構文で話すよう、繰り返し指導した。また朝の会では、「今日は○月△日□曜日です。」「健康観察をします。○○さん、元気ですか?」などの言い方の練習を行った。

(8)気持ちを表す表情がわかる。
  身振りや視線、体の向き、顔の表情などの動作も、言語コミュニケーションと並んで、他者とのコミュニケーションを進める上で重要な働きを担っている。そこで、それらの動作が表す気持ちをT児に知らせるため、「怒った時」「悲しい時」などのまねっこ遊びをしたり、「この顔どんな顔?」と言って、いろいろな表情を見せたりして、気持ちを推察する練習をした。

(9)電話で話す。
 1、2学期は内線の応答と家族への連絡を中心に、3学期は友達への連絡を中心に練習した。

(10)その他
  競争意識があまりないためか、T児はじゃんけんや「あっち向いてホイ」などの遊びが苦手である。そこで2学期は、じゃんけんの出し方や「あっち向いてホイ」の向き方、「おちゃらか」などの手遊び歌やジェスチャー遊びなどをいろいろ練習した。 
3 T児の変容
 ・ 1学期当初は、担任の指示や質問に返答することもなく、私はいつも空しい思いをしていた。だが2学期の中盤以降は、発する言葉の数もどんどん増え、短いやりとりができるようになった。家庭からも、学校同様少しの時間なら対話ができるようになったとの報告があった。
 ・ 担任以外の人の問いかけにもよく注意を払う(じっとして聴く)ようになり、言語によって反応を示す場面が増えてきた。初めは「相手を見て。」や「Tちゃん。」というプロンプトを得て相手の方を向いていたが、3学期にはプロンプトなしで首を回して顔を向けるようになった。
・ 友達との関わりにおいては、自らの要求による会話はないのだが、話しかけたり話しかけられることには抵抗がないので、言い方や内容を示せば数回のやりとりができるようになった。友達の方もよく協力し、T児の言葉を注意深く待ってくれるので、T児も安心して表現できるようであった。
 ・ 「おはよう。」、「さようなら。」、「いってきます。」、「ただいま。」など、教室を出入りする際の挨拶が定着し、声は小さいものの進んで挨拶できるようになった。
 ・ 電話に慣れてきて、校内電話にも好んで出るようになった。伝言や連絡等はまだ充分ではないが、「はい。」「いいえ。」などの簡単な受け答えならすることができるようになった。
 ・ 老人ホームでの自己紹介は、教室で行う練習とひと味違うらしく、毎回緊張感を漂わせながら活動した。
・ 手遊び歌やジェスチャー遊びのように、言葉と動作が結びついた活動がお気に入りで、大変伸び伸びと活動できるようになった。じゃんけんや「あっち向いてホイ」は残念ながら相変わらず苦手である。
 ・ 時々、笑顔や不機嫌な顔を故意につくり、「これ見て。」と言って私に見せてくるようになった。「誉められたら『うれしい顔』をする。」等も徐々に練習した。
4 終わりに
 以上、T児のコミュニケーションスキル育成のために1年間実践してきたことを書き出してみた。
 私の中には、焦らずあわてず本人の思いをじっくり聞き出しながら自我の拡大を図りたいということと、T児の努力を正しく評価できる目を私自身の中に育て、T児がセルフエスティーム(自分を誇りに思う気持ち)を育てていけるような支援をしたいという願いがあったのだが、どれだけT児の心を満たす支援ができたかは分からない。
 できることなら、T児が少しでも多くの遊びを覚えて友達と遊べるよう指導したり、「友達の家に遊びに行った時」、「買い物に行ってお金が足りない時」など、実際の生活で起こりそうな場面をロールプレイしたり、ひとりで買い物に行く、ひとりで電車に乗るなどの練習もしたりして、コミュニケーションスキルの育成から社会生活を送るためのスキルの育成に視点を広げて指導してみたかったが、それができなかったのが大変残念であった。T児の今後の成長に期待している。
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