<特 攻 基 地 跡>

知覧特攻平和会館

会館内部は撮影禁止だったので写真はないが、涙涙の見学となった。
兄弟が皆出撃し、一家断絶となった家や、朝鮮人の特攻隊員もいたそうだ。
強制的に送られたのだろうか?それとも家族の幸せを願って、祖国でもない国に身を捧げたのだろうか?
ホールで30分くらい、元特攻隊員の証言を聴いた。
こうやって、次の世代に伝えることが、彼の役割、ミッションなのだろうと思う・・・が、なぜここまで冷静に話せるのか・・・、人間の弱さと同時に強さも感じた。



新しそうな灯籠がたくさん建っていた。
特攻隊員達が、出撃前の夜を過ごした三角兵舎。
半地下であるため風も通らず、随分暑かったらしい。
前夜ここで泣き濡れていた人も、笑顔で出撃していったそうだ。



鹿屋航空基地史料館


錆びた機体に日の丸のデザイン、どこか悲しい。
 鹿屋海軍航空基地は、昭和11年、艦上戦闘機、陸上攻撃機の基地として建設され、戦争末期には第五航空艦隊司令部が置かれ、菊水作戦の基地となった。ここでもたくさんの若い命が散っていった。前庭には、現在自衛隊で使われている航空機もたくさん展示されていた。史料館の中では、近代日本が経験した全ての戦争が解説されていて、大変勉強になった。特攻隊に関するコーナーは、涙ぼろぼろで見学した。次男Hりんは、知覧の時よりずっと真剣に見学していた。今度こそ、心にしっかり感じることができたみたいだった。一緒に出版物を選んで買った。
← こんなにもたくさんの特攻基地があったとは、今まで全然知らなかった。にわかには信じ難い数だった。若者達は(大人達も)完全に、いやがおうにも絡め取られ巻き込まれる環境にあったと言えると思った。こんなにまでなる前に、どこかで踏みとどまる術を、今後を生きる我々は身に付けなければならないのだと思う。
くしんして 育てあげたる ふたりの子
おやくに たてて
ないて ほほえむ
先立てし 
子を おもいつつ
年かさね
いまは浄土の
みちしるべかな
 ← 私にも2人の息子がいる。2人も子どもを失った母の苦しみとは、いかばかりか想像に難くない。お役に立てたと泣いてほほえんだところで、少しも心は癒されなかったことが、ひしひしと伝わってくる。母は 「浄土のみちしるべ」と思うことで、今も耐え続けている。



宮崎特攻基地慰霊碑



    ★ 19歳や20歳で殉死した少年達の遺言には涙が出た。山口県出身者も何人かいた。

    ★ 宮崎空港前身の赤江飛行場は、昭和18年12月1日、海軍航空隊練習基地として開隊。
      翌年8月1日練習航空隊が松島へ移転し、昭和19年10月10日、正式に作戦基地となった。
      そして戦死者700名余を出す2日後の初出撃である。


昭和18年、赤江海軍練習航空隊
発足時に造られた門柱

宮崎空港の西隣の一角

遺書が刻まれた石碑
「昭和二十年五月十日午後五時四十八分 海軍一等飛行兵曹 伊東 勲」
何も書く事はありません。只御両親様及び久美子の健在を祈るのみ。勲は決して人におくれはとりません。潔く散るのみです。目標は正規空母です。十日位したら徳島海軍航空隊第十四分隊五班上野功君に便りして下さい。写真は受け取ったと泣かずにほめて下さい。幸多かれと祈るなり。親戚の皆様に宜敷く。宮崎航空基地にて 六時三十分終了 御両親様 孝養を頼むぞ久美子 安よ頑張れ
「神風特攻隊第六菊水隊 享年二十才」

 昭和19年10月12日、台湾沖航空戦。陸海軍機の攻撃隊及び雷電隊が出撃した。参加海軍機344機、陸軍機200機。戦死者数海軍635名、陸軍80名。

 昭和19年10月25日の第一神風特別攻撃隊敷島隊から始まった特攻出撃者は海軍2507名。陸軍1392名。特攻隊員のほとんどが、ここから直接、あるいはフィリピンや台湾・沖縄を経由して出撃した。

 これらが、なぜいたいけな若者達ばかりだったのか、悲しみが込み上げる。戦後の日本を建て直すのは、若い彼らのはずではなかったのか。結果として大人は彼らの真心に甘え、彼らの命を、人生を、摘み取ったと言えるだろう。

 昭和20年3月18日、艦載機による宮崎初空襲。民間人の死者123名、負傷者176名。午前5時48分から午前8時までにグラマン戦闘機150機。午前10時までに540機、正午から午後4時45分までに200機が飛来した。反撃は第721航空隊の零戦90機。

戦没者墓碑銘
予科練習生の名前もたくさんあった。

海軍飛行兵曹長 永峰肇 辞世
享年19才:海兵団入団は17才
南溟に たとへこの身が果つるとも
 いくとせ後の春を想へば



宮崎護国神社





   





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