大久野(おおくの)島

戦前は、一般人の上陸はいっさい禁止。地図からも消されていた。
なぜなら・・・、ジュネーブ条約で禁止されていた毒ガスを製造していたから。



 1929年、陸軍造兵廠火工廠忠海製造所として完成。、毒ガスの製造が始まった。
 1937年、日中戦争が始まると中国各地で実戦に使われた。
 (中国では6000トンが使われ、約9万人が被害に遭ったという説もある。)
 また、毒ガスは風船爆弾としてアメリカ本土に到着し、女性1人と子ども5人が死亡した。

 戦後、工場は米軍によって破壊。
 国内の毒ガス工場は、ここの他には相模海軍工廠(神奈川県)のみ。


展示されているたくさんの資料から、今も戦場で使い続けられている毒ガスがあることや、
日本軍が戦後、中国に遺棄した毒ガスが土中などから現れて、
中国の人々を傷つけていることなどを知った。

 瀬戸内海に浮かぶ大三島(おおみしま)からフェリーで13分

大久野島は周囲4.3kmの小さな島。ウサギの島としても有名だ。
野生なのかと思いきや、たくさんの人がエサを持って駆けつけていた。
エサがもらえると思って、巨体を揺らして私に突進してくるウサギもいた。
ハァハァ言って体当たりされたら恐いっちゅーの!

↓11月下旬だが、まだまだ紅葉がきれいだった。

幹部だけが入れた防空壕。↓
入り口は2つで、盛り土の周りが石垣で囲まれていた。↓
従業員がギュウギュウ詰めで入る防空壕は、他にあった。

↑毒ガス資料館。1988年の建設。 
製造器具や処理の写真、防毒衣服・マスク、
元工員の持ち物などが展示されていた。
右中の画像は貯蔵庫。ここにタンクが置かれた。↑  
金属だと化学変化を起こすので、容器は陶器が使われた。(右下)↑

↑司令所、および砲台跡

↑ 発電所跡。周囲には土塁が設けられ、見えにくいようにされていた。
↓トイレ跡。陶器の立派な便器だった。

↑長浦毒ガス貯蔵庫。進駐軍が火炎放射器で焼いたススの跡が残っている。
終戦時、島に残った毒ガスは約3000トンで、
焼却の他、海洋投棄や埋め立てが行われた。
その作業によって中毒になった人も多かったようだ。

↓地下兵舎跡。最盛期の従事者は約6000人。
主に近所の農村・漁村から働きに来ていた。中高生もいた。
現在でも約700人の人が、毒ガス後遺症に苦しんでいる。

1901年の日露開戦前、呉軍港を守る要塞として、この島に砲台が造られた。
今も3基が遺されていた。美しい空と海に、あまりに不似合いな遺跡だ。

    

 


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