金子みすゞのふるさと 長門市仙崎

 仙崎駅前から北に続く約1Kmの道、そこが、みすゞ通り。
 金子みすゞが、幼い頃過ごした街だ。
 今も昔の家並みが残っていて、どこかしら懐かしい街だった。

 その通りの実家跡地に、生誕100年を記念して2003年にopenした「みすゞ記念館」と、
 実家を再現した家がある。
金子文英堂
【実家跡に再現された書店】
実家は書店を営んでいた。
年代ものの雑誌や本(当時の復刻版)がたくさん並べられていた。
【店を臨む一階の居間】
【店の奥】
大正デモクラシーのエネルギーを感じる本の数々。
2階の みすゞの部屋
 小さな机に座布団1つ。
 みすゞはこの窓からよく通りを眺めていたそうだ。
 2階の別室には、弟、正祐氏に関する記事や資料がたくさんあった。
<弟、正祐氏のこと・夫、宮本氏のこと>

当時、実の姉と知らなかった弟の正祐氏が、みすゞに恋愛感情を持っているとして、2人を切り離そうとした周囲が、みすゞと上山文英堂(母の再婚先:海外にまで支店を持つ大店)の番頭、宮本啓喜氏とを結婚させた。

宮本氏の放蕩ぶりを知っていた正祐氏は大反対だったが、みすゞは周囲の薦めに従った。
翌年、娘ふさえが生まれたが、夫の放蕩は収まらず、家庭を顧みることはなく、みすゞは夫から淋病までも移されている。
更にみすゞは夫から、詩作ばかりか投稿仲間との文通までも禁じられ、3年後、2人は離婚した。
お風呂
 映画「みすゞ」に出てきた、娘ふさえとの最後の入浴シーン、私はあのシーンが忘れられない。彼女はその後、ふさえを寝かしつけ、服毒自殺を果たした。26歳だった。
 彼女にとって、どうしても譲れなかったこと、それは詩作よりも何よりも、幼い娘との別れだったのだと思う。翌日は離婚した夫に娘を引き渡す日だった。母親に親権が認められなかったその時代、自殺は娘に示した最大の愛情表現であり、元夫への痛烈な抗議行動だったことが分かる。
 彼女は死ぬ前に、3冊の遺稿集を書き上げ、ふさえの片言を拾い上げしたため、そして自殺の前日、写真を撮っている。なんて悲しい、しかし強さと希望にあふれる行動なんだろう。
<みすゞについて>

本名 金子テル。
大正12年6月頃(20歳)から雑誌への投稿を始め、西条八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と絶賛された。

しかし死後、彼女の作品は散逸。当時の商業新聞が「金持ちの娘の自由気ままな恋愛の破産」等と書いたため、
みすゞの母親がそれを嘆いて遺書などを誰にも見せなかったという経緯もある。

私は思った。みすゞの強さは、きっと母親譲りなのだ。
自分を見失わない芯の強い女性のモデルが身近にあったからこそ、みすゞは自分の魂を守ることができたに違いない。

その後50年以上の時を経て、「大漁」に激しい感銘を受けた矢崎節夫氏の探索で、1982年、512編の遺稿集が発見され、
以後、全集や選集が次々に出版されて現在に至る。
金子みすゞ記念館本館
【本館入り口】
みすゞギャラリーや展示室がある。
【ミュージアムショップ】
みすゞに関わるたくさんの本が、展示・販売されていた。
【金子文英堂と本館の間の中庭の像】
本を読む白亜の少女像
この部屋では、みすゞの生涯を紹介するビデオが流されていた。
みすゞ通りの家々の軒先には、いろんなみすゞの詩が飾られていた。
町全体で、みすゞを守っている。

仙崎駅の構内には、かまぼこ板に書かれたメッセージで作った、
大きなみすゞの絵が飾られていた。↓

山銀のシャッターにもみすゞの詩↑

みすゞ通りの店や民家の玄関↑
遍照寺
 それまで墓の所在は不明だったが、みすゞ研究者の矢崎節夫氏が激しい雨の夜、発見した。激しい雨でコケがはがれて、見つけることができたんだって。
 
 今では、花を手向ける人が絶えない。

【みすゞの第二のふるさと下関】

下関では大正12年(20歳)から、亡くなる26歳までを過ごした。

 亡くなる前日に、亀山宮参道にあった三好写真館で
みすゞは遺影を撮った。
 その時みすゞを写したカメラがこれ。

三好写真館 跡地

旧赤間関郵便局(現下関南部町郵便局)
建物は当時のまま。
ここからすぐの場所にみすゞの家はあった。


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