+ + 麻羅観音(まらかんのん)〜長門市〜+ +


 これには正直ビックリした。(多種多様で大量)
 だけど、その由来は大内氏の悲しいお話によるもので、大事に供養しなくちゃいけないことが分かった。
 
  現地の説明書きによると、
 天文20年(1551年)9月1日、中国地方の太守 大内義隆は家臣の陶晴賢に攻められ、湯本温泉の大寧寺で自刃。
 翌2日、長子の義尊は捕らえられ惨殺。末子の歓寿丸は女装して山中にかくまわれていたが、翌春捕らえられ、ここで殺された。
 その際、男児の証拠に男性器を切られ、持ち去られた。これを里人は憐れみ、この社を建て霊を慰めた。
 
 三男勧寿丸は、この時何歳だったのだろう?長子義尊もまだ7歳だったそうだから、物心つかぬ幼児だったはず。
 いろんな人にかくまわれ、陶氏の家臣にも助命を約束されたのに果たされなかったようだ。
 何が何でも世を去らねばならない運命って、あってよいのだろうか・・・・。
 戦国の世に限らず歴史の中には多かったとは思うのだけれど。


観音堂入り口の六地蔵
 台座には明和2年(1765年)とあった。事件から200年以上後の建立ということになる。
   これが最も古そうだった。  いろんなカタチの石像が、林立していた。
木造のものや、コンクリート製、鉄製もあった。
「そんなに撮らなくても」って夫に言われたが・・・。   子宝祈願や健康祈願で訪れる人も多いみたいだ。
木の裂け目の中にも小さい像が。 漢字違ってる・・。 たくさん奉納してあった。
脇侍  これだけ向きが違っていた。どれもこれもそうだけど、これは特に、どう見ても、幼児の男性器じゃあない。
 こういうのは、どこかで見たことあるような気がする。
  ←これがご本尊なのかもしれない。




年銘読み取れず→

 p.s.  その後、愛知県・田縣神社の「豊年祭」など、全国に似た神社が存在することが分かった。
           
         


 2009年、再訪。
 今回は、大内義隆終焉の地や、義隆・義尊父子の墓所なども訪れたし、(→「墓所5」 )
その後陶晴賢に迎えられ当主となった大内義長の運命もおさらいしたので、
いっそう大内氏に対する理解が深まった気がする。

 

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