長く続いた戦争と人々の暮らし 2  (6年:社会科)



第6時
1 森脇さんのお話を聞く。
2 感じたことを述べ合う。




森脇さんの話
 
 アジア・太平洋を戦場にした15年戦争が始まった2年後の1933年に生まれた。日本は国際連盟を脱退し、言論の自由もなく、反対者は逮捕・投獄される時代だった。
 1940年、柱島小学校に入学。2年生の時、アメリカ・イギリス・フランス・オランダを敵にした太平洋戦争に突入した。柱島小学校は柱島国民学校となり、教科書も「サイタ サイタ サクラガ サイタ」から「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」へ。他の内容も戦争を賛美するものに変わった。
 柱島はどこから見ても三角形の島。豊後水道を通って飛来したB29は、広島湾の真ん中に浮かぶ柱島を目印にして、岩国や広島に飛んでいった。
 1945年には日本は制空権・制海権を失い、戦争をする力がなくなっていたが、神国だから必ず神風が吹いて敵を撃滅すると皆信じていた。
 大学生も含め多くが召集され、国内でも動員学徒は働いていたので、郷里には女性・お年寄り・病気の人・子どもだけだった。学校も、校長・教頭以外は皆女先生だった。
 兄(当時17歳)は、海軍の特攻隊員になるつもりで親の制止も聞かず、予科練習生に申し込んだ。人々は武運長久を願い、寄せ書きを贈った。そして、鹿児島の予科練に入った。
 (後で聞いた話だが、お兄さんは体が弱かったので湯来町と広島の間を毎日歩いて体を鍛え、予科練に行ったそうだ。)

ここで森脇さんは、お兄さんに贈った寄せ書きを見せて下さった。
「兄さん、がんばれ。」と書いた森脇少年の文字もあった。

それから千人針も。
一人一刺しずつ、たくさんの人の力で仕上がったこのお守りを、
ある人は腹に巻き、ある人はハチマキにして、戦に参加していったそうだ。
千人針は、婦人会が世話をして、千人分集めた。
 残された小学生は空き地を耕し、サツマイモやカボチャを作った。勤労奉仕として、男手のない家に、春は麦刈り、秋は稲刈り、夏は肥料となる草刈りに行った。わら草履も自分で作った。器用な人は下駄を作った。慰問袋を作るのも日課だった。中には石鹸等の日用品と、感謝の手紙を入れた。

 5・6年生は航空機の燃料になる松ヤニを毎朝とりに行った。早朝、竹の受け皿を設置し、翌朝集め、ドラム缶に溜めていった。
 芋のおかゆをよく食べた。
 魚を釣り、夕ご飯のおかずにした。昼はイリコ味噌の日の丸弁当や竹の皮に包んだ梅干し。おやつはサツマイモだった。木の実・草の実も食べた。田舎なので、食べ物には恵まれているほうだった。
 出征兵士には、港で壮行会を開いた。小学生は学校から船着き場まで大太鼓・小太鼓を叩き、軍歌を歌い、旗を振って送った。全校児童が参加した。
 壮行会では偉い人が「時局多難の折、召集されたことを讃え、死を恐れず・・・。」と挨拶。その後、出征兵士が御礼と決意を述べる場面で、ある人が、「病弱な母を残して行く、そのことだけが心残りだ」と大粒の涙を流したところ、前列の端にいた教頭が「この不忠者めが!」と直径2cmほどの小石を投げつけた。天皇の命令で戦争に行くのに泣くとは何事かという意味だったようだ。式の帰り、お年寄りは「親一人、子一人じゃけぇのう。後髪引かれる思いがするよのぅ。」と話していた。
 当時、柱島には海軍の帆船が停泊し、水泳やボートを漕ぐ訓練を行っていた。生まれて一度も海を見たことがない兵士もいた。東北出身の泳ぎのできない40代の兵士は、やっとボートに泳ぎ着いても、20代の下士官がオールで何度も突き放していた。その兵士は溺れて亡くなり、遺族には「名誉の戦死」と伝えられた。島民は、そうやって死んだ人を何人も見ている。
 1945年は毎日空襲があった。3月10日の東京大空襲では一晩で10万人以上が、全国では150万人以上が焼き殺された。周りからガソリンと焼夷弾を落とし、逃げ道を塞いで皆殺しにするやり方だった。
 岩国空襲は春から夏までに9回を超え、1000数百人が犠牲になった。
 5月10日の岩国陸軍燃料廠への空襲では、B29が何千発も集中爆撃を加え、中学生や女学生も365人が亡くなった。14・15歳は36人だった。
 8月14日、岩国駅前は、B29の絨毯爆撃で隙間なく徹底的に破壊されたが、岩国航空隊の滑走路には1発も落とさなかった。アメリカは、終戦後すぐに使おうとしていたことが分かる。

 山陽本線の上りと下り、岩徳線が同時に着いた時間を狙って落とした。通過するだけの人もいたことから、1000余名のうち、500人余りしか犠牲者の名前が分からない。
 終戦前日に落とした理由は、今までは、余った爆弾を消費したのではないかと言われていたが、最近は、恐怖と威圧を市民に与え、占領政策をスムーズに進めるためだったと言われるようになった。
 グラマンの大編隊も飛んできて、爆弾投下と機銃掃射を行った。燃料廠には燃料タンク、水タンクがあった。水責め・火責め・土責めで多数殺された。水責めは消火用タンクの水による溺死、火責めは燃料タンクの油による焼死、土責めは防空壕直撃による倒壊で土が鼻に入ることによる窒息死である。
 旧暦の6月17日は、宮島の管絃祭。柱島でも精一杯のご馳走を揃え、集会所に集まっていた。そこへ250kg爆弾が落とされ子ども6人、大人3人が亡くなった。3人は大怪我をした。操縦士は皆ニヤニヤ笑っていた。昼前には、隣の端島(はしま)を襲った。
 7月24日の柱島空襲では、5・6年生は松ヤニ採りで不在で、1〜4年生だけが学校にいた。午前8時にグラマンが飛来したので、先生の指示で防空壕に入ったが、それを見届けたグラマンは、島を一周した後、その防空壕に250kg爆弾を投下。全員が生き埋めになった。

 初めかすかに「お母ちゃん」と泣く声が聞こえていたが、声はやがて聞こえなくなっていった。次々に空襲を受け、救助活動が空襲の合間しかできず、最後の遺体を発見したのは夜の9時だった。親たちは涙も枯れ果て、もう一滴の涙もなかった。
 犠牲者は子ども15人、大人4人。皆、鼻や口に土が詰まっていた。遺体は学校に並べられた。防空壕に引率した女先生は、戦後、その責任を取って辞職した。
 校舎は機銃掃射で穴だらけになった。段々畑を右に左に逃げまどう農婦が狙い撃ちされ、漁夫は舟の周りを逃げまどった。自分も狙い撃ちされた。その時操縦士と目が合った。ニヤニヤ笑っていた。弾は頭上50cmをかすめ、背後の建物に当たり、それを破壊した。
 自分は軍国少年と言われていた。空襲警報(カンカンカン)、警戒警報(カーン、カンカン)の鐘を進んで鳴らし、避難しなかったので狙われた。
 8月6日、原爆で2人の姉を失った。自分も校庭で光を見て音を聞いた。じきに被爆者が舟で柱島へ帰ってきた。カヤの中に横たわり、うめきながら傷口のウジ虫を箸で捕ってもらっていた。団扇で扇いでもらっていた人も、死んでいった。
 島に幽霊話が持ち上がった。海の底で盆踊りの太鼓の音が聞こえる。島の人はそれを海太鼓と呼んだ。
 日が暮れて農作業から帰る時、後ろから足音だけがいつまでも付いてくるなど。
 そこで、お経をあげ、慰霊の盆踊りを行った。
<基地について>
 独立した平和を求め、米軍基地をなくすために努力してきた。今、基地の拡張と愛宕山の開発に反対している。
 米軍は、岩国に劣化ウラン弾があることは認めたが、核の貯蔵は「本国の指示でノーコメント」と言っている。
 沖合に滑走路を建設したのは、爆音や墜落事故から市民を守るための移設と市民は説明されたが、実は再編だった。工事後は元の基地があった場所は返還されると言われたが、それも守られなかった。岩国は、極東最大の基地になる。核攻撃が可能な戦闘機が配備される。
 愛宕山は、学校やスーパー、病院など揃えた住宅団地にする予定だったが、国と県は米軍住宅にしようとしている。

<終わりに>
 戦争で、2000万人のアジアの人と、350万人の日本の人が命を失った。二度と戦争を許さないために、歴史の真実をしっかりと学び取ることが大切だ。
 日本の将来は、みんなの肩にかかっている。平和の担い手になってほしい。


子どもたちは皆、神妙な顔で聞いていた。
私は涙が止まらなかった。
なんて、心に響くお話だったことか。
森脇さんの命と人生、魂のこもった、お話だった。
子どもの発表
 何を学ぶことができたか、何を感じたか、発表するよう投げかけた。子ども達は、ボツン、ボツンと、話し始めた。
 未来のために頑張りたい。
 もう戦争はしたくない。
 おばあちゃんも体験者なので、身近な人からも聞いてみたい。
 山口県でもこんなことがあったなんて知らなかった。よく分かった。
 小さなことから見つめ直したい。
 いじめをなくしたい。
残念ながら数人しか発表の機会を持つことができなかった。
後は日記で、子どもたちの感じたことを受け止めたい。
翌日の日記より
 
 戦争は、もう起こしてはいけないと強く思った。生きている人を撃ち殺すのは、生きている資格がないと思った。でも昔は日本人も朝鮮人・中国人達をいっぱい殺したので、それも生きている資格がないと思った。
 戦争中の小学校生活は、畑をたくさん作ったことや、油をとりに行ったこと、靴は下駄や草履または裸足だったこと、食生活はどうだったかなど、たくさんのことが分かった。また、社会科の授業でも出てきた寄せ書きされた国旗や千人針も実際に見ることができた。戦争は二度と繰り返してはいけないと思った。
 戦争はやっぱり怖い!!改めて思った。自分が想像した以上にひどくて怖い。言葉にできないほどひどくて悲惨なものだと分かった。森脇さんも狙い撃ちされたけど、ギリギリ当たらなくて本当によかった。今、日本が戦争を起こしたら、私は反対したい。理由は未来のため。いいことは一つもない。日本人はニヤニヤしながら人を殺してほしくない。人の悲しい顔や辛そうな顔を見たくない。森脇さんのお話を聞いて、ほんと戦争は醜いなと思った。このお話は戦争を経験したことのない私達にとっても、とてもいい機会だった。私にも戦争を経験したおばあちゃんがいるので、聞いてみたい。
 2人の姉が死んだと聞かされた時、悲しかったと思う。森脇さんは戦争でいろいろな人や物を失って、心はすごく傷付いたと思う。
 森脇さんの話を聞いて、すごく戦争の怖さを知った。戦争中を生きた人がとてもかわいそうだった。私が一番かわいそうだったのは、家族と離れて暮らすということだ。私はもう二度と戦争をしたくないと思った。ちょっとしたけんかでも戦争に繋がることが分かった。
私達と同じ年で戦争を体験したんだなと思った。弾丸がもう少しで森脇さんの頭に当たっていたと聞いて、もう少しで森脇さんは亡くなっていたと思うと、戦争はすごく怖いと改めて思った。これからは、日本や世界の国でも戦争をなくしていったらいいと思う。
 アメリカ軍は、日本が負けると分かっていたのに終戦前日、爆弾をたくさん落としたのに腹が立った。
 パイロットが撃ちながら笑っていたというところがすごく悲しかった。人々は苦しんでいるのに、なぜそんなことができるのか。私は先生が言っていたように「小さい出来事のうちに、けんかはやめよう。」「誰でも止めることができる。」と言っていたのがよく分かった。
 戦争って怖いな。二度としてはいけないな。私なら、戦争の時代に生きていけないと思った。こんな大変な時代を生き抜いて、この時の話をみんなに聞かせて下さる森脇さんはすごいと思った。すごく長生きして頑張ってほしい。
 「泳げない人を容赦なく船から突き落として、その人達が船に上がろうとすると棒で突いて船に上がらせないということを繰り返していました。」のところから、私はこの訓練の仕方は訓練でなく、訓練を受けさせる人が殺している感じだと思った。今は戦争をしていないけど、いつか世界中で戦争がなくなって平和になってほしい。
 今まで知らなかったことを学ぶことができた。一番驚いたのが、頭の上をすれすれで通った爆弾の話だ。そして何度も狙われたこと。生き延びた人は本当によかった。
 日本にもこんなことがあったと、私も次の世代に教えてあげたい。
 戦闘機に撃たれて校舎がボロボロになったのに驚いた。その時はどうしようもなかったと思う。人を恨みたかったと思う。敗戦だと分かっていたのに、攻撃をした理由が、恐怖を与えるためだと聞いて驚いた。これからはこんなことのない将来に僕達がしていきたい。
 太田さん(「自分を見つめよう3」を参照)が言ったように、命の大切さ、命の重さが分かった。
森脇さんのお話のお陰で、他人の生きる権利を奪うことは、絶対に許されないことだと、子どもたちは十分理解することができた。

語り継ぐことの大切さを感じ取っていた子どもや、身近な人間関係を見つめ直そうと考えた子、以前の人権学習と結び付けて考えている子などもいて、学習の成果を感じることができた。




    

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