光海軍工廠跡
2006,1015
 昭和15年10月1日創設。ここには、砲熕・水雷・製鋼の各部があり、呉鎮守府に属していた。
 今は武田製薬工業の敷地になっている。


 昭和20年8月14日(敗戦前日)、B29爆撃機157機の編隊が、この光海軍工廠に絨毯爆撃を加えた。これにより、動員学徒133人を含む738人が戦死し、施設の約70%が破壊された。
 空襲は約40分。885トンの爆薬が投下されたということだ。

 同じ日の正午頃、岩国市の駅周辺も空襲により大変な被害を受けている。敗戦は既に決定(ポツダム宣言受諾を連合国側へ打電)し、翌日の国民への発表を待つばかりとなった日であったというのに。

 私の母校(高校)にも、動員学徒の死を悼む碑があった。当時は全く無関心であったことが悔やまれる。
タケダのHPによると・・・
 終戦前日に猛爆を受け廃虚と化していた光海軍工廠を、GHQの許可のもと、昭和21年、工場に転用。
 これは戦後における国有地の民間使用第一号となったということだ。
「平和の光」碑文
朝鮮人爆死者
 先日読んだ「朝鮮人強制連行調査の記録」によれば、犠牲者738人とは、日本人のみの数である。碑文には一言も触れられていないが、死者は更にあった。
 
 光市役所の調査によると、この日爆死した朝鮮人は、34名となっており、真福寺境内に建てられた無縁仏の供養塔には、56柱が身元不明であったことが記されている。
8月14日の空襲って?
 勝敗が既に決定していたのだから、その日の空襲は、「勝つため」ではないよね。じゃあ何なのだろう?ちょっとでもたくさんの非戦闘員を殺すため?恐怖心を徹底的に与えておいて戦後の統治をスムーズに行うとか??

 ウィキペディアによると、8月14日の空襲は、光海軍工廠の他にも、
  • 大阪=B29・約100機。死者173名。負傷89名。焼失二千戸。
  • 熊谷=B29・82機。死傷者687名。
  • 8月14-15日 小田原=死者30〜50名。
  • 8月14-15日 秋田・土崎=B29・132機。死傷者300〜400名。
とある。岩国市が入ってないけど、前述したように駅周辺は大きな被害を受けた。死者は514人と伝えられている。きっと、8月14日に空襲された都市は、まだ他にもあったに違いない。
熊谷の空襲(8月14日夜〜15日未明)
 net親戚のneoさんが、熊谷の空襲について教えて下さった。

終戦記念日の日、市内を流れる星川という川で灯篭流しを行うのです
当時幼稚園にも入っていなかった私はそのたくさんの灯篭の灯りがなんかとても恐ろしいというか、不気味というか・・・
そんな感じで見ていました
今でも、灯篭流しの幻影的な灯りは綺麗と言うより私にとっては恐ろしい感じがしてしまうのです・・・

終戦前夜の空襲では祖父の家は全焼してしまいました
今でも、江戸時代の古銭で小判は熱でひしゃげた状態で保管されています
空襲で焼け野原になった跡、焼け跡から掘り出したそうです
その日の父は群馬の桐生高専という現群馬大学の学生で太田(中島飛行機=現スバル自動車太田製作所)の軍需工場に借り出されていました
その夜は遠く熊谷の空が真っ赤だったと言っていました

 neoさん、情報ありがとうございました。なお、neoさんのブログはコチラです。↓ http://blogs.yahoo.co.jp/happy_go_lucky_neo

 話題が豊富で、とってもおもしろいですよ!
追記
保阪正康 著「あの戦争は何だったのか」によると、世界の教科書では第二次世界大戦が終了した日は、
降伏文書に正式調印した9月2日であり、8月15日としているのは日本だけらしい。

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