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三田尻塩田記念産業公園
三田尻塩田記念産業公園は、入浜式塩田を再現
した公園だ。塩がいかに貴重なものなのかがよく
分かる。荒れた塩田を復旧する「地場こしらえ」の
時に歌う「浜子歌」は、市の無形民俗文化財に指
定されている。





外国の岩塩
岩塩がとれない日本では、塩を得るには海水から取り出す以外になかった
少しでも効率よく塩が取れるよう、工夫や改良が加えられていった




使われた道具
濃縮された海水を沼井(ぬい)に運ぶのは、
重労働だったようだ。
昭和の中頃まで、この製法で塩が作られていた


枡築らんかん橋

塩、石炭などを積んだ上荷船が、
満潮時でも通れるように、橋桁が高い

 
高さ12,5m・石造りの 釜屋の煙突
塩釜で長時間煮詰めるので、
大きな煙突が必要だった




釜屋= 鹹水を煮詰める施設
 

釜屋の中の大きな釜



 三田尻式濃縮台
 鹹水の濃度を高めるための工夫で、
 三田尻独特のもの
木枠の中に、塩がごっそりできていた



<県外の方向け おまけの話>

防長の三白政策

 「中興の英主」と言われた第7代毛利重就の時代に、瀬戸内海沿岸の開発が進み、干拓地や新田、交易港が充実した。また、廻船業が発達し、防長米・紙・塩が振興して(防長三白)、県外で名声を博した。

 江戸時代後期、全国68ヵ国のうち、塩を自給自足していたのはわずかに8ヵ国。全国の塩は、三田尻を初めとする瀬戸内の製塩によって支えられていた。



村田清風の四白政策


防長三白に蝋を加え、四白政策とも呼ばれている。




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