Sさんの被爆体験 (6年)

 周南市在住の被爆者、79歳のSさんに被爆体験を語っていただいた。
 当時Sさんは中2だったので、6年生の子ども達と変わらない年頃の出来事だ。
 子ども達はみんな真剣な表情で話に聴き入っていた。
 生の声に勝るものはない。
 Sさんの生への意欲、差別への洞察、社会を見つめる目の確かさ・・・etc、感動することだらけだった。

15:00 対面
  
 
15:00〜15:30 講演
 Sさんは、ゆっくり丁寧に語って下さった。
 元気そうに見えても体調は万全ではないのだそうだ。
 使命感に突き動かされている、私にはそんなふうに見えた。

  <お話の内容>  
 8月6日(月)は、ちょうどクラスが休みだった。休みには勤労奉仕に行くことにしていた。各家庭から一人ずつ行くことになっていたので自分が行った。砂浜に埋めた酒樽に、満潮に合わせて海水を入れる作業をしていた。ランニングと短パンで、バケツ1つを持って参加した。着ていた服の色が白かったのが幸いしたと思う。
 警戒警報が鳴り、解除になってすぐにB29が低空で来て、空からキラッとした物を落とした。宣伝ビラかと思った。目を離した瞬間、ピカッと光った。目を開けていられないほどだった。
 刃物で切り刻まれたような痛みが全身を襲った。次に、ドカーンと爆音が聞こえた。10mは飛ばされていた。立ち上がると砂煙が上がっていた。
 周辺のお姉さん達が、「水を下さい。助けて下さい。」と言っていたので恐怖心が湧いた。
 頭がチクチクしたので触ると、ウールの焦げた臭いが手に臭った。それで焼けたのだと分かった。
 
 
 広島は、焼け野原で、家はぺちゃんこ、あちこちから火の手が上がっていた。
 目標物もなくなったので、家がどっちか分からなかったが、帰ることができた。
 
 病み上がりだった母が玄関先にいた。髪はパサパサ、着物は乱れ、「キー坊(小1の弟)が死ぬ、兄ちゃんが死ぬ、助けてー。」と叫んだ。父の服は、べっとりと血がにじんでいた。
 
 膝の上辺りからスネまで火傷をした。めくれた皮膚が足首で止まり、その黒くなった皮を足首から引きずって歩いてきたが、この時それを自分で引きちぎった。そして、家の中に救出に入った。
 
 
 まず弟を助け出した。弟は、倒壊した柱で頭を押さえつけられていて、「早くしてくれ。」と言っていたので、必死で助けた。2mくらい離れた場所に長男がいたので助けた。しかし、自分の体力は限界で、喉が焼け付くようだった。唾が喉を通らなかった。水道からポタポタ水が漏れていて、下にバケツが置いてあったので、バケツに頭を突っ込んで飲んだ。
 布団を敷いてもらって休んだが、意識は朦朧とし、立ち上がることもできなくなった。
 兄と姉は、軽い火傷で油をつけてもらって治ったが、自分は悪化していった。納屋に住んだ。薬はなかった。
 頭の火傷にはハエがとまって卵を産んだ。かさぶたがチクチクした。ウジが這い回った。
 火傷から6ヶ月間は毎日火傷の治療をした。7歳年上の姉が世話をしてくれた。
 母の里が大津島で、両親は里に帰ったので、自分と姉が広島に残った。
 
 足が治ったら立ち上がった。嬉しかったが、鏡を見て愕然とした。醜い体になったと思った。大きな禿げができ、首から手は肉の塊、ケロイドができていた。これで学校に行けるのかと思った。
 4月になると復学したが、クラスは全滅だった。14万人も15万人もの人の命が一瞬で奪われた。
 昭和23年9月まで2年間広島市の学校へ通った。2晩、父と兄が説得をし、その後、母の故郷の山口県へ転校した。高一だった。それからの3年間は針のムシロだった。好奇心による視線が痛いほど分かった。山口県では被爆者は珍しかった。
 3年が過ぎ、就職した。10年間は元気で働くことができた。
 昭和35年、動くたびに夏は目の前が真っ暗になるようになった。極度の貧血だった。爪も反り返った。医者に行ってもダメだったが、漢方医に救われた。
 会社勤めしながら、入退院を繰り返した。現在も健康ではない。急に気分が悪くなることがある。放射能の影響だ。
 これから日本を背負って立つみなさんに言いたい。核廃絶を進めていきたい。お互い思いやりの心を持って譲り合うこと、尊重し合い、話し合うこと。
 私の体験を、家の人にも伝えてほしい。戦争がいかに愚かで悲しいことか、実感してもらいたい。
 

 これまでいろんな学校で語り部をしてきたが、握手を求められたのは初めてだったそうだ。嬉しかったとSさんはおっしゃっていた。

 子ども達には、Sさんが語られたように、思いやりの気持ちをいつも持ち、譲る時は譲る、それができる子に育っていってほしいと思った。


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