-星塚敬愛園 訪問記-
(鹿児島県鹿屋市)


2007年11月10日
 東門の案内図
 東門の外側には「星塚町入り口」と看板が出ていた。
 
 
敬愛園は、昭和10年10月28日設立
平成19年10月1日現在の入所者276名。
最多時には1340人を数えたという。
平成19年10月1日現在の平均年齢80.8歳

かつては園の周りに有刺鉄線が張り巡らされていた。
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4代目の納骨堂
宗教会館
 園では約1800人の方が亡くなり、そのうち300人ほどの遺骨が
ふるさとへ帰ることができた。しかし、引き取り手のない遺骨が、
今も1500体眠っている。
 お葬式で困らないよう、全ての宗教の祭壇が揃っている。
 入所者は、入所の際に、偽名と宗教を決めさせられた。
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火葬場跡 昭和24年まで使用
 赤いレンガの窯と、石仏が残っていた。
 近々、標本にされた胎児の合同慰霊祭があるということで、周辺の草はきれいに刈り取られていた。
 
 敬愛園では、終戦の年には143人の入所者が栄養失調等で亡くなった。1日1体しか焼けないため、
すぐそばの土手に溝を掘り、「土手焼き」も行われた。

 亡くなればすぐに解剖され、お葬式は同郷や同じ宗教の人が執り行った。
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敬愛橋  旧納骨堂
 畑から家に通うために、昭和18年、深い谷間に架けられ
た。火葬場や家畜舎へも通いやすくなった。
 「紀元2600年記念事業」として始められ、入所者の強制
労働で丸3年の歳月をかけ完成。不自由な手にスコップを
くくりつけ、作業させられた。
 西本願寺鹿児島別院を中心に、県下の各寺院からの
寄付金と入所者の強制労働で、昭和14年に完成。
半地下式。初代園長 林文雄氏の設計。
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 この奥には、学校や神社の跡地があった。
 学校にはプールもあったそうだ。
 学童は、月に1回家族と面会できたが、長机を挟み、
互いに1列で向かい合って立ち、手を触れることも許さ
れなかったということだ。
 親について入所した学童(非感染児)は、療養所の
外の学校に通うこともできたそうだ。

 敬愛神社は、召集で戦地へ行った職員達の武運長久
を祈って建てられたようだが、祭神は不明。
 桜島の灰がかかっても、回復者はまばたきできず、
目の病気を悪化させてしまいがち。 そこで、外廊下に
屋根が付けられたのだそうだ。
 → 広くてきれいなゲートボール場。

 ボールを触らない、仲間に入れてもらえないなどの
差別もされたが、入所者のチームは全国優勝を果た
すまでの強豪になった。
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スーパーマーケット 教   会
 
 ↑ 今では規模を縮小し、経営しているそうだ。
 かつてはこの周辺に食堂も2〜3軒建っていたそうだ。
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理容院
管理棟
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交流会館
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夫婦用の2軒長屋 共同浴場

 昔は12畳半に4組の夫婦が雑居し、布団を敷けば
隣の夫婦の布団との隙間が10cmもない・・・そん
な生活が玉城さんも10年続いたのだそうだ。

 入所者同士のよきコミュニケーションの場なのだそうだ。
 住居にお風呂を付けたい場合は、自費でする。
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防空壕跡  島比呂志さんの書斎があった所
 すぐそばに鹿屋航空隊基地がある。1920年3月より、
園も空襲を受け始めた。同年、防空壕掘り開始。
大人はもちろん、少年少女も動員された。
 総延長420m、50mの縦穴3本、横穴2本、
1.000人が避難できるという大規模なものだったが、
完成後1週間で終戦を迎えた。
 
 その後、人や牛馬の屎尿捨て場となったが、
屎尿が、隣接する旧納骨堂にまで染み出し悪臭が
するようになったので、納骨堂は移転された。
 島さんは、1995年9月1日、九弁連へ人権救済の申し
立てをし、ハンセン病訴訟のきっかけを作った人だ。

 ここでは、亡くなると、その人が自費で建てたものは
すぐに取り壊されることになっているのだという。


天皇家との関わり

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高松宮妃殿下
御手植の藤
貞明皇后歌碑
 皇室には、人によってそれぞれ関わる分野が決められていて、
高松宮妃殿下は、ハンセン病療養所の担当。
 皇室を利用して、入所者の不満を逸らしたのだそうだ。
「つれづれの 友となりても慰めよ 
      ゆくこと難き われにかはりて」

 1931年、東京で園長会議が持たれた時、
貞明皇后(昭和天皇の母)が園長達に詠んだ歌。
形は違えど、全国の療養所に同じ歌碑があるそうだ。

 敬愛園のこの築山は、患者の強制労働で築いたもので、
これによって多くの人が病状を悪化させたという。
 「恨みの碑」と呼ぶ人も。

玉城シゲさん
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1918(大正7)年生まれ、89歳! かくしゃくとしていて、聡明で、色気もある、素敵な方だった。
苦しみに満ちた人生を、自らの手で切り開き、乗り越えてきたサバイバーの強さ、しなやかさが彼女にはあった。
お話も上手で、私は何度もウルウルきた。短い時間だったけど、時間を共有できたことが、とても嬉しい。

 「原告8号」となり、裁判を起こした当初は、同じ入所者からの無視やいじめもあったようだ。
 
 
    〜シゲさんの話〜

 シゲさんは沖縄出身。13歳で発病したが、7年間、親類の医者が作ってくれた大風子油(漢方薬)のみで普通に生活をしていた。
 園長からの優しい手紙にほだされて、親にも内緒で入所。

 しかし現実は、厳しい労働・暮らしの連続で、地獄だった。12畳半の部屋に8人で共同生活。そうした住居が50〜60棟建っていた。
小学生も100人くらいいた。押入は2つで、8人分の衣類や布団でぎゅうぎゅう詰めだった。食べ物も入れていた。
 5時に起床。狭いので競争で布団を押入に入れた。
 
 入所してすぐ、「偽名は何にするか」「(葬式を出すために)宗教は何にするか」と聞かれ、解剖承諾書に署名捺印を求めらた。
 家では普通の生活をしていたのに、強制的で過酷な労働によって、入所後1年以内に指を次々に失った。
 戦争中で食べ物もなく、朝から夕方まで奉仕作業だった。病人なのに、荒地を耕し、米も麦も野菜も自力で作った。
作ったさつまいもは航空隊に持って行かれ、自分たちは腐ったさつまいもも食べた。
 掃除・洗濯をし、裁縫部とか、いろいろな仕事があった。
 
 お金は入所の時、取り上げられていて一銭もなく、ひもじくて、夜寝られなかった。
 農地に落ちていたものを拾ってきた人と着物を物々交換したりした。

 「働くために来たんじゃない。治療するために来たんだ」と職員に抵抗すると、「座敷ブタ」と言われた。
 腐った指は、ハサミでパチンパチンと切られた。
 
 もう一言も口答えできなくなっていった。ただ涙をこらえるばかりだった。

 入所時に預けたお金を取りに行っても取り合ってもらえず、沖縄に帰る自信もなく、入所して2年目で結婚。
12畳半の部屋に4組の夫婦で雑居生活を10年した。それぞれの夫婦にできた子どもは次々に堕胎させられた。

 自分も7ヶ月間妊娠を隠していたが、堕胎させられた。
 
不妊手術と妊娠中絶手術は大正4年から結婚の条件として多磨全生園で実施され始め、全国の療養所で行われるようになっていた。
   1948(昭和23)年の優生保護法で明文化。)

 眼科医の女医が麻酔もかけず、7ヵ月になった赤ん坊を引き出した。
 膿盤に乗せられた赤ちゃんは、濡らしたガーゼで鼻と口を押さえられ、手足をバタバタさせて死んでいった。
 今でも忘れられない。

 堕胎された赤ちゃんは、試験室の棚の上にホルマリン漬けで飾られていたが、戦後、すっかりなくなった。
昭和10年〜20年くらいまでの10年間で100体はあった。

 父が帰って来いと手紙をくれた。お金や食べ物も送ってくれたが、職員にみんな取られた。
 昭和35年、70歳の父が尋ねて来た時、「来年帰る」と嘘をついた。母には会いたかったが勇気がなかった。
「国が悪いんだから大丈夫。」と父は言った。
 それから7年目に父に会い、30年目に沖縄に帰ったら、母は亡くなっていた。亡くなって1週間経っていた。
 父は優しく、親戚もよくしてくれた。1ヶ月いた。それから毎年帰るようになった。

 今は、父母も兄弟も亡くなった。

 それから裁判を起こした。今でも変な目で見られることがある。
 

上野正子さん
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 部屋にお邪魔して、少しだけお話を伺った。

 この日は、お出掛けになると聞いていたので、
思いがけずお会いできて、とってもラッキーだった。

 亡くなったパートナーへの思いを大切に生きておられる
方だと思った。


終わりに
今回は、夫・次男と一緒に行った。2人とも、とてもよかったと言っていた。
特に次男の心にしっかりと響いたことが、私はとてもとても嬉しい。
大きな収穫だった。
「行く」「ふれあう」「話す」って、こんなに素晴らしいことはないと思った。

お二人を紹介して下さり、園内を詳しく案内して下さったボランティアのMさん、ありがとうございました。お陰様でとても有意義な学習ができました。

Mさんを紹介して下さった大分のきょうこさん、本当にありがとうございました。


今回学んだこと
心に誓ったこと
○ 人権感覚を磨く。
○ 不正義を、小さなうちに見抜く。
○ 過ちを人のせいにしない。
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