-長島愛生園 訪問記-



2005年10月29日
 長島愛生園は、風光明媚な瀬戸内海の小島に建てられた、我が国初の国立のハンセン病治療のための療養所だ。
  ・・・「愛生」とは誰が名付けたのだろう? 全ての人間関係を断ち切られ、子どもを持つことも許されなかったこの園で、「愛に生きる(or愛を生きる?)」とはいったいどういうことなのだろう? 

 特効薬発見の後までも強制隔離に加担した、初代園長光田健輔は、ここではどういう扱いなのだろう?

 国賠訴訟を闘った人たちは、今どうしておられるのだろう?

 いろんな疑問を胸に、初めて長島愛生園を訪れた。
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邑久長島大橋  1988年5月、17年にも及ぶ
入所者たちの粘り強い運動の
末に架けられた。

 「人間回復の橋」と呼ばれてい
る。橋の名に「大」の字を入れた
ことからも、人間回復への強い
期待感が読み取れる。想像して
いたよりもほんとに小さな橋だっ
た。
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大橋から海峡を臨む
 狭いところでは本土と島との距離は、わずか30m。

 しかし、潮の流れが速く、島から泳いで脱出しようとして亡くなった人もいた。
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 島の中にも、職員と入所者の居場所を分ける境界があった。職員地域と患者地域は、この地点(写真を撮っている地点)ではっきりと区別され、上陸する桟橋も別だった。

歴史館学芸員の田村様のご高配により、幸いにも加賀田さんのお話を聞けることになった。
加賀田さんは、岡山国賠訴訟の原告となって人権回復運動を闘ってきた方で、
邑久長島大橋の建設運動の中心人物でもあった方だ。


加賀田一さんのお話  
  大阪で働いていた19歳の時、額にシミができ、病院に行くとハンセン病との診断。医者からは「ここでは治療はできません。身辺をよく整理して専門の病院に行って下さい。」と言われた。

 母からは、「治らん病気はない。治らんということは、おまえが病気に負けている。人間は生きていなければ生まれた価値がない。つらいが頑張れ。」と言われた。

 港までは後ろが観音開きの囚人用の護送車で送られた。ちょうど小学校の下校時刻で、子どもたちは鼻をつまみ、口を押さえてそばを走り抜けた。この時「オレの人生は終わった。」と感じた。

 桟橋から上陸すると、「病院」ではなく「収容所」という看板がかかっていた。持ち物はホルマリンに浸けられた。クレゾール液への入浴後、所持していたお金もなくなっていた。職員から、「ここでは普通のお金は使わんのですよ。」と言われた。「偽名を使ってもいいですよ。」とも。上半身を裸にされ、囚人のように番号を振られた。

 その晩は一睡もできなかった。

 入所者が亡くなると、遺族の同意もなく解剖され、臓器はホルマリン漬けにされていた。結婚は許されるが、堕胎・断種が強制的に行われていた。お腹で8ヶ月にまで育った子どもも殺された。

 1956年、ローマ国際会議で、強制隔離という日本の政策は間違っていると指摘されたのに、政府は受け入れなかった。翌々年の保険法改正でもハンセン病患者は適応除外となり、社会復帰の道は閉ざされた。ハンセン病差別に関わる法律は11もあった。

 子どもたちには、間違っていることは間違っていると勇気を持って言える人になってほしい。
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加賀田さん(88歳)
鳥取県出身
 今でも入所者の46%は偽名だそうだ。

 436名の入所者のうち、85人は失明している。加賀田さんも2度の失明を乗り越え、快復したと言う。 
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 お話の後、小学生がリコーダー演奏を披露した。

歴史館見学
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歴史館(旧事務本館)
1930年の建築。天井も高く、入り口正面のステンドグラスもゴージャスで、立派な建物だった。

 2003年に歴史館としてオープンした。

 中には、患者自身が集めた資料や制作したもの、ハンセン病に関わる書籍等が多数あり、時間をかけて見学できないのが残念だった。(バスの時間が迫っていたの。)

施設見学
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開拓患者上陸の地

 1931年3月27日、光田健輔他2名の職員と85名の開拓患者が上陸した地点。

 地元住民の反対や混乱を防ぐため、大阪から海路でやってきた。

 

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路線バスの停留所
 「今では路線バスまで来るようになった」と言って、Mさん(今回知り合った入所者の方)は喜んでいた。

 現在、月に2回、園主催の買い物バスツアーもあるそうだ。多いときで20人程度の方が参加されるらしい。
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収容桟橋
 昭和14年9月以降、患者はここから上陸した。

 収容される患者の多くは「お召し列車」(専用車両)で岡山駅まで運ばれ、岡山駅から虫明港までは護送車、海上は患者専用船によってこの桟橋まで運ばれた。
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収容所(回春寮)
 島に隔離された入所者は、鉄の扉のこの寮にまず収容された。

 最初に、ゴザの上に所持品を全部並べてチェックを受ける。園が不要と判断した物(懐中電灯など、逃走に使えそうな物など)は没収、その他の所持品は着ていた衣服とともにホルマリン消毒されてから返品された。
 
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クレゾール入りの
消毒風呂
 全身を消毒され、男は縞、女は矢絣の着物を渡された。

 その後、検診等の入所手続きが済むまで約1週間、この寮で過ごした。
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目白寮跡
 「白猫」で歌人としての地位を確立した明石海人が入居していた寮の跡地。
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万霊山納骨堂
 現在の納骨堂は平成14年に再建されたもの。
 現在、納骨堂には3508柱の引き取り手のない遺骨が納められている。

 戦時中は栄養失調等で死者が多く、火葬場だけでは足りないので野焼きもしたそうだ。終戦の翌年には入所者の23%にあたる332人が、栄養失調等で死亡したということだ。
 
  
 
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監 房
 逃走した者は、約10日間の監禁。食事は1日2食で、1食がおにぎり1つと沢庵漬2切れ、コップ半分の水だけだった。

 園長に懲戒権が与えられていたため、裁判もなしに収監された。


 長島事件の後、各療養所の園長から、「らい刑務所」の設置要求が出され、栗生楽泉園に「特別病室」(重監房)がつくられた。そこでの獄死者は何と22名。園長たちに殺人の罪はないのだろうか?
 板敷き6室・畳敷き2室。開園から昭和28年まで使用されていた。

 塀と監禁室の2重に鍵が付いていたそうだ。

 現在は、コンクリート壁の一部を残すのみ。
 

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恵の鐘  昭和11年、入所者処遇の改善を求
めたハンスト(長島事件)の舞台とな
った。

 3日間、鐘は休むことなく打ち続け
られた。

 

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新良田教室
 全患協(現全寮協)の強い要求により、昭和30年、岡山県立邑久高校新良田教室が設置された。閉校までの32年間で307名の生徒が卒業し、73%が社会復帰を果たした。
 
 開校当時、教師は白ずくめの予防着姿で、生徒は教職員室への出入りは禁止。用事がある時は室外のベルを鳴らした。
 また参考書代金等で金銭を受け取る際にはお金を消毒液に浸し、札は窓ガラスに張って乾かした。答案や作文も消毒箱に入れてから受け取っていた。

 その後、ベル制は昭和48年に廃止。(それまで続いていたのが驚きだ。)修学旅行も生徒側の強い要望で、昭和50年にようやく実施された。 
 校舎の中には、机や椅子、運動会の用具などが放置されていた。使っていた人の温もりが伝わってくるような気がした。
 
 「私たち(私と、この校舎、ここで学んだ生徒たち)は、時代を共有していた。」そんな思いが沸き上がった。
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園内専用のバス停  無料の循環バスが毎日走ってい
る。

 本数も多いし、自分で歩ける元気
な人にとっては、結構便利なんじゃ
ないかと思った。
 
 
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一朗道  昭和7年に入園した久保田一朗は
園内の宅地造成や道路工事に大き
く貢献した。

 療養所でありながら、患者は療養
できる状態にはなかったことを後世
に伝える貴重な碑だ。 
 
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少年舎
 多い時には100名以上の少年少女が生活していた。

 国からの予算はなく、全て寄付によってまかなわれていた。

 寄付した人たちは、どんな気持ちで寄付したんだろう?子どもたちのため?それとも、わがままな保身のためなのだろうか?
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ボートハウス
 かつては趣味でボートを楽しむ人がいたそうだが、今は皆、高齢で、ボートハウスも廃屋となっていた。

 固定的な人間関係の中にありながら、新しい楽しみを見つけ出し、チャレンジするエネルギー、私も見習いたい。
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 ここで1日3回給食を作り、配達する。

 配達用の軽トラックのナンバーは皆「愛○○」・・・外部との連絡がないってことは、正なのだろうか?負なのだろうか?
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 園内のあちらこちらに、歴代園長の
顕彰碑があった。

 園長が退任すると自治会費で顕彰
碑を建てるのが慣例になっているそう
だ。 
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 視力を失った人の道しるべになるように、
ラジオ放送や園内放送の入るスピーカー
が設置されている。
 
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ショッピングセンター  
 お年寄りや視覚障害者のために、商品の定価は大きく表示されている。

 入所者は、国民年金や障害者年金で買い物をしているそうだ。
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光田健輔銅像
 私、どうも、この人が気になって仕方ないのよね・・・。自分だけに与えられた特権にしがみつき、たくさんの人を不幸にした張本人っていうイメージが、どうしてもぬぐい切れない。個人の思想は自由だが、なぜ今でも信奉している人がいるのか不思議でたまらない。

 像は、最も人通りの多い治療センター前に、で〜んと建っていた。
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 ここがメインストリート。
 
 道の上のパイプで、蒸気を各戸に送っているそうだ。
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カラオケ集会所
中からきれいな歌声が!
  
  入所者は、各種サークル活動の他に、県人
 会や宗教連合会、後見人制度などを利用して、
 様々な横の繋がりを持っているそうだ。
 
  また、保健相談室(巡回訪問)や福祉課職員
 の訪問などによって、独居とならないよう配慮
 されているそうだ。

Mさん夫妻との出会い
 道でMさんという入所者に出会った。Mさんは親切にも初対面の私に施設の案内をして下さったり、話を聞かせて下さったりした。部屋にも連れて行って下さって、奥様とも対面。お隣にお住まいの方からも優しく声を掛けていただいた。
 
 温かい方たちだった。そして、温かい時間だった。
 
 長く理不尽な苦しみを背負わされ、どんなにつらかったか、一瞬だけの訪問者の私が理解するのはたやすいことではない。だけど、ハンセン病の学習を、これからも続けていかなければ、私もMさんたちの思いを生かせないままにマジョリティの側の人間に居座ってしまうってことだよね・・・。

 Mさんは、私が帰れなくならないように、事務所に電話してバスの最終便の時刻を確認して下さったり、車を持っているお友達に声を掛けて送って下さったりした。とってもありがたかった。
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<Mさんの話>
・ 昭和28年入所
・ 光田健輔に診察してもらっていた。(呼び捨てはいかんと叱られた。防府市のお墓参りにも行ったそうだ。)
・ 最近博多に里帰りした。実家を訪れることはできないので、母親の眠るお寺に参った。
・ 2005年10月23日の天皇・皇后両陛下の訪問のこと、趣味のこと、昔の学校のこと、日常生活のことなど、いろいろ話して下さった。

 無礼な質問もいろいろしたが、優しく教えて下さった。本当にありがとうございました!!

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