+ + 大内義隆主従の墓所 + +





  
 

 大寧寺の裏にある、大内義隆(31代)・義尊父子およびその従者の墓所。

 1551年(天文20)、陶晴賢の反逆により山口を追われた大内義隆は、美祢郡綾木を経由し土豪の助けで豊前まで船で落ちのびようとしたが、西風が収まらず鼻津浦から流されて唯浜に上陸。陸路引き返し大寧寺にこもった。この時の家臣はわずか64人だったという。

 ここで和尚と禅問答。その後、自刃した。享年45歳。
 
 嫡子義尊(よしたか)は、仏門に入れるという和尚との約束で、一旦は逃亡するも捕らえられ、翌日殺害された。享年7歳。

 


 墓は宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 義隆と義尊の墓石が並んでいる。高さ約1.4m
幼子の死を思うと悲しくなる。
殉死した家臣達の墓
最後まで従った冷泉隆豊ら33柱の塔が建てられている。
1888年(明治21)に、毛利元徳によって
死者の名を刻した標柱が建てられた。
名門のこの寺に、萩藩の重臣達も、
こぞって分骨したようだ。
倒壊した墓も多い。 兜掛けの岩
自刃を覚悟した義隆が、兜を脱ぎ、この岩にかけた。
山門跡
明治末期に倒壊した。
姿見の池
義隆が顔を映そうとしたが映らなかったことから、
その運が尽きたのを悟ったと言われている。
大内義隆辞世の歌
「討つ人も 討たるる人も諸共に 
如露亦如電 応作如是観」
 
 敗走し、わずか3人の供と大寧寺に入った冷泉隆豊は、本堂に火を放ち、割腹。
 その臓腑を取り出し天井に打ち付けて死んだと伝えられている。
 
 翌年、女装して逃げていた義隆末子の歓寿丸も捕らえられ、惨殺される・・・。→「麻羅観音
 
 また、大内義隆の甥であり、晴賢に擁立されて後に大内家当主となった大内義長も、悲惨な最期を遂げている。

 






大内義隆の墓  
 
 少し離れた所にも、義隆の墓がある。

 俵山八幡宮所蔵の文書には、義隆は冷泉氏の説得に応じ、大寧寺から牛ヶ迫を経て上政に向かったと記されているらしい。(当地の説明書きより)


大寧寺は、足利学校じ・鎌倉文庫の再興で名高い上杉憲実終焉の地でもある。
公は、政争に疲れ出家。諸国行脚の後、1452年、4世竹居和尚の弟子になり、1466年この地で入寂。



<大内家家臣達の墓>


 
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